墨菊が彩る戦国の世:潤甫周玉の画菊
- JBC
- 2023年8月13日
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更新日:1月13日

室町時代、特に水墨画において、菊は文人画の画題として好まれました。菊は、その高潔な姿から「四君子」の一つとして、また長寿の象徴として、中国をはじめ日本でも広く親しまれてきました。本稿では、潤甫周玉の画菊を通して、当時の時代背景や文化的意義について考察します。
潤甫周玉について
潤甫周玉は、戦国時代の臨済宗の僧侶です。若狭武田氏の第5代武田元信の庶長子として生まれ、後に建仁寺282世となりました。 16歳の時、100種類の菊の絵と名称、漢詩の形をとった説明を付けた、わが国最初の菊の図譜である「画菊」を著しました。 元禄4年(1691)に刊行された「画菊」には、永正16年に臨済宗の僧永瑾(1447〜1537 建仁寺245世)の記した序文があります。
文人画と菊
文人画は、中国で宋代に発生した士大夫の絵画であり、日本では室町時代中期以降に禅僧などを通して広まりました。詩歌や書道に通じた教養人が、余技として描いた絵画であり、画題としては、山水、人物、花鳥など、幅広い題材が扱われました。その中で、菊は蘭、竹、梅とともに「四君子」と呼ばれ、高潔な人格や節操を象徴するものとして、文人画の画題として好まれました。
描かれた時代の背景
永正16年は、室町幕府の権威が失墜し、戦国時代へと突入していく過渡期でした。文化・芸術においては、禅宗の影響が強く、水墨画が盛んに描かれた時代です。 特に、中国から輸入された宋元画の影響を受け、如拙や周文といった画僧たちが活躍し、日本独自の水墨画様式を確立していきました。
水墨画は、墨の濃淡や筆致、余白などを巧みに利用することで、対象物の形や質感、奥行きなどを表現する絵画です。 鎌倉時代に禅宗とともに日本に伝わった水墨画は、当初は禅の思想を表す信仰的な画題が中心でしたが、次第に山水や花鳥など、より世俗的な題材も描かれるようになりました。 室町時代には、中国の宋元画の影響を受けながら、如拙や周文といった画僧によって、日本独自の水墨画様式が確立されていきます。
画菊の分析
「画菊」は100種類の菊の図譜であり、それぞれの菊の画と名称、漢詩の形をとった説明が付されています。 丁寧な筆彩色が施されていることから、当時の菊の多様な品種や、それに対応する名称、そして菊に寄せる人々の想いを窺い知ることができます。 また、潤甫周玉が禅僧であったことから、禅宗的な思想や美意識が反映されている可能性も考えられます。
画菊の文化的意義
室町時代、菊は高潔さや長寿の象徴として、絵画の画題としてだけでなく、文様や家紋などにも広く用いられました。 当時の社会状況を反映し、画菊にも、乱世を生き抜く人々の精神的な支えとなるような、象徴的な意味が込められていた可能性があります。
菊は、秋に咲く花であることから、日本の古典文学では、しばしば「もののあはれ」や「わびさび」といった、秋の寂寥感や無常観と結びつけて歌われています。また、菊は、中国から伝わった「重陽の節句」において、長寿を祈るシンボルとして重要な役割を果たしてきました。
画菊が刊行された永正16年は、室町幕府の権威が失墜し、下克上が横行する戦乱の時代でした。 このような時代において、菊は、その高潔な姿や不老長寿の象徴性から、人々に希望や勇気を与える存在として、より一層重要視されたと考えられます。
潤甫周玉の画菊は、わが国最初の菊の図譜として、当時の菊の品種や美意識を伝える貴重な資料です。
潤甫<周玉>//〔原画〕『画菊』元禄4(1691)刊. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1288399