江戸時代中期の地誌『続江戸砂子温故名跡志』によると木挽町(現在の銀座2~8丁目)東に位置する埋立地(築地)の海浜に面して場所に、相模国小田原藩・稲葉正則が拝領した屋敷の添地として、寛文3年(1663)の秋に作庭されており潮を引き入れる3つの池が設けられ、その名も「江風山月樓」と称し、江上の清風と山間の名月が望める庭園でありました。
延享3年(1746)に稲葉家屋敷の東半分以上が徳川御三卿の一橋家所有の下屋敷となり、その後、寛政4年(1792)に一橋家から松平定信(宝暦8年(1758)~文政12年(1829))に屋敷地の大半が分与され、定信が再整備した庭園を「浴恩園」と名付け(一橋家の御恩に浴する意を表す)、隠居後には「楽翁」と号して園内に「千秋館」を構えて作庭を進め、天下の名庭園とうたわれる造園を手がけました。
園内の名所巡りを記した定信自身の随筆『浴恩園假名之記』をはじめ、「浴恩園真景」「浴恩園図記」「江戸浴恩園全圖」などにも残されています。
約1万7千坪の屋敷は、潮入りの大きな2池「春風の池」「秋風の池」を囲む回遊式の庭園が中心で、各所には布置された泉石や築山・池中の島・石橋・亭などを配し、春秋の樹木から薬草・菜園に至るまで、庭園の空間構成を意識した各種の樹木や草花の植栽が整えられていました。(引用・参考:中央区ホームページ・浴恩園跡)
浴恩園図記
著者は、江戸時代の儒学者・広瀬蒙斎(明和5年(1768) ~文政12年(1829))。
幼少より学問の素養があり松平定信の命によって江戸の昌平坂学問所に入学。主に朱子学を修め、白河藩の藩校立教館の学頭を経て教授となります。定信の侍講として幕政や藩政にも参画し、「集古十種」の編纂にも参加しました。
画は、江戸時代後期の日本の南画家・谷文晁(宝暦13年(1763)~天保11年(1841))。
本書は、唐津藩および尾張藩の御用絵師である長谷川雪旦の弟子・朝岡且嶠(生没不明)が写した写本である。
広瀬蒙斎 著 ほか『浴恩園図記』,朝岡旦嶠 写,明治18 [1885].
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540999
江戸浴恩園全圖
著者は、近代日本の造園研究の先覚者・小沢圭次郎(天保13年(1842) - 昭和7年(1932)です。(※署名は、小澤圭と記されている)
『江戸浴恩園全圖』,小沢圭 写,明治17 [1884].
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9367513