
東京・文京区に鎮座する湯島天満宮は、学問の神様として知られる菅原道真公を祀る神社であり、受験シーズンには多くの参拝客で賑わいます。 しかし、湯島天満宮の魅力はそれだけではありません。今回は、その長い歴史と豊かな文化、そして美しい梅について詳しくご紹介します。
歴史に彩られた湯島天満宮
湯島天満宮の創建は古く、雄略天皇2年(458年)に遡ります。 当初は力の神、技芸の神として知られる天之手力雄命を祀る神社として創建されました。 その後、正平10年(1355年)に菅原道真公が合祀され、学問の神様として広く信仰を集めるようになりました。
菅原道真公:学者、政治家、そして学問の神様
菅原道真公は、平安時代の貴族であり、学者、詩人、政治家として活躍しました。 5歳の時に和歌を詠み、18歳で文章生試験に合格するなど、幼い頃から非凡な才能を発揮しました。 33歳で学問の最高位である文章博士となり、その後も右大臣にまで出世しましたが、政治的な陰謀により大宰府へ左遷され、不遇のうちに亡くなりました。 道真公の死後、都では疫病や天変地異が相次ぎ、人々はそれを道真公の祟りと恐れました。 彼の怒りを鎮めるために北野天満宮が建立され、道真公は学問の神様として祀られるようになったのです。
徳川家康との深い関係
特に江戸時代には、徳川家康公をはじめとする徳川将軍家の庇護を受け、大きく発展しました。 家康公は江戸城入城の際に湯島天満宮に朱印地を寄進し、 江戸における学問・文化の振興を図りました。
聖堂之画図
湯島聖堂は、約6,000坪の敷地を有し、孔子を祀る大成殿、儒教を講義する学舎などが建てられた。それまで林羅山がたてた私塾が公的な学問所となり、藩士・郷士・浪人が勉学に励んだ。元禄4年の釈奠では、仰高門外の東舎で林信篤の講義が行われた。https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/P-3024?locale=ja

浮世絵に描かれた湯島天満宮
湯島天満宮は、歌川広重の「江戸百景」にも描かれており、 江戸時代の人々にとっても親しみ深い場所であったことが伺えます。
名所江戸百景・湯しま天神坂上眺望

明治維新以降の湯島天満宮
明治維新後も、湯島天満宮は学問の神様として、そして地域の信仰の拠り所として、多くの人々に親しまれてきました。 近年では、平成7年(1995年)に総檜造りの社殿が再建され、 その荘厳な佇まいで参拝客を魅了しています。
湯島天満宮の歴史を紐解くと、火災や社会の変化を乗り越え、常に人々の心の拠り所であり続けてきたことがわかります。 現代においても、学問成就、合格祈願、そして文化的な交流の場として、重要な役割を担っています。
多彩な文化を育む湯島天満宮
湯島天満宮は、学問の神様として知られるだけでなく、様々な文化的な側面も持ち合わせています。
建築様式と主な建造物
現在の社殿は権現造りという建築様式で、本殿と拝殿が幣殿で結ばれています。 建材には樹齢250年以上の木曽檜が使用され、 日本古来の「木の文化」を象徴する純木造建築となっています。
境内には、男坂、女坂、夫婦坂の3つの坂があります。 男坂は38段の急な石段、女坂は勾配が緩やかな坂道、夫婦坂は途中に登竜門がある坂です。 それぞれの坂には歴史があり、参拝客は思い思いの坂を上って境内へと向かいます。
また、正面屋根の大きな三角部分は、鳥居のある場所と社殿との高低差を考慮した設計で、拝殿をより雄大に見せる効果があります。 天井には、画家・松尾敏男氏による竜の天井画が描かれ、 参拝客の目を惹きつけます。
境内を彩る見どころ
湯島天満宮の境内には、歴史を感じさせる建造物や美術品が数多く存在します。
表鳥居:寛文7年(1667年)に寄進された銅製の鳥居は、東京都の有形文化財に指定されています。 鳥居の脚の台座は梅の形をしており、その上には唐獅子の装飾が施されています。 銅の重厚感と精巧な装飾が見る者を圧倒します。

唐門:門扉には、湯島天満宮の神紋である「加賀梅鉢紋」と、天神信仰で神徒とされている牛が刻まれています。

撫で牛:菅原道真公と牛の深い縁にちなみ、境内には2体の撫で牛が置かれています。 自分の体の悪いところと同じ部分を撫でると、その部分の病気が治ると伝えられています。 長年多くの人々に撫でられてきた撫で牛は、黒光りして独特の雰囲気を醸し出しています。

奇縁氷人石:かつては迷子探しのために使われていた石柱で、 縁結びのご利益があるとされています。
宝物殿:社の神輿や町内神輿、その他所蔵の宝物を展示しています。
ガス灯:明治時代に建てられたガス灯は、当時の街並みを彷彿とさせます。
湯島天満宮に伝わる行事など
湯島天満宮には、以下のような伝説や行事が伝えられています。
富くじ:江戸時代には、谷中感応寺、目黒不動尊とともに「江戸の三富」として、幕府公認の富くじ(宝くじ)を発行していました。 境内は、一攫千金を夢見る人々で賑わったことでしょう。
拝月:江戸時代から明治にかけて、毎年7月26日夜の拝月には、多くの人々が集まりました。 月明かりに照らされた境内で、人々はどのような思いを馳せていたのでしょうか。
砥餅:2月10日の祭礼には、砥石の形に作った餅を神前に供え、氏子にも配る風習がありました。
このように、湯島天満宮は歴史と文化が織りなす魅力的な空間です。学問の神様を祀る厳かな雰囲気の中にも、人々の暮らしや信仰に根ざした温かみが感じられます。
梅の名所として知られる湯島天満宮
湯島天満宮は、江戸時代から梅の名所として知られており、 毎年2月から3月にかけて「文京梅まつり」が開催されます。
梅園の歴史と規模
現在の梅園は約20種類、約300本の梅の木があり、 白加賀を中心に、月影、豊後梅、寒紅梅などが咲き誇ります。 この梅園は、かつて荒廃していましたが、昭和30年に氏子有志の努力により復興されました。
梅まつりとイベント
「文京梅まつり」は、昭和33年から続く歴史ある祭りで、 期間中は、勇壮な湯島白梅神太鼓や華やかな野点、 奉納演芸など、様々なイベントが催されます。 夜間にはライトアップも行われ、幻想的な雰囲気の中で梅を楽しむことができます。
文学作品にみる湯島天満宮の梅
湯島天満宮の梅は、多くの文学作品にも登場します。例えば、泉鏡花作の新派劇『婦系図』では、湯島天満宮の白梅が重要な役割を果たしています。
『婦系図』は主人公・早瀬と芸者・お蔦の悲恋物語で、湯島天満宮の境内が重要な場面の舞台となっています。特に、お蔦が早瀬との別れを告げる「湯島の境内」の場面が有名です。
この小説をもとに劇団新派によって脚色された舞台『湯島の白梅』も有名になりました。さらに、1942年(昭和17年)には「湯島の白梅」という楽曲が発表され、大ヒットしました。この歌は『婦系図』の名場面をモチーフにしており、歌詞の中に白梅が登場します。
これらの作品により、「湯島の白梅」という名称が広く知られるようになり、湯島天満宮の梅、特に白梅は文学的なイメージと深く結びついています。
現在、梅の木の老化が進み、花の数が減少していることから、湯島天満宮では梅園再生プロジェクトが進められています。 地域の人々の尽力により、未来へと受け継がれていくことでしょう。
まとめ
湯島天満宮は、学問の神様を祀る神社としてだけでなく、歴史、文化、自然が調和した魅力的なスポットです。受験シーズンはもちろん、梅の季節やその他の時期にも訪れて、その奥深い魅力を体感してみてはいかがでしょうか。
湯島天満宮は、学問の聖地として、また、江戸時代から続く梅の名所として、多くの人々に愛されてきました。歴史と文化が息づく境内には、様々な見どころがあり、何度訪れても新しい発見があります。都会の喧騒を離れ、心静かに歴史と自然に触れることができる、そんな特別な場所です。