江戸時代八代将軍徳川吉宗の孫にあたる松平定信は、白河藩の養子になり老中となって、寛政の改革(1787~1793)を推進しました。
寛政6年(1794)に老中職を辞した松平定信は、明暦の大火(1657)以降に埋め立てられた小田原藩稲葉家の屋敷地5万坪(江風山月楼/旧築地中央卸売魚市場)の内1万7千坪を賜り自らが作庭した庭園を「浴恩園」と命名。海辺の景勝地を囲む築山の春風の池に桜、秋風の池に紅葉、池には日本中から収集した蓮を配した名園だったようです。
その後、文政12年(1829)、神田佐久間町から出火した文政の大火は築地周辺へも及び、浴恩園すべてを灰塵に帰してしまいました。
『江戸浴恩園全圖』,小沢圭 写,明治17 [1884].
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9367513
『江戸浴恩園全圖』,小沢圭 写,明治17 [1884].
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9367513
白川侯蓮譜(一部抜粋)
『白川侯蓮譜』
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286941