蝦夷草木図 - 小林源之助の功績
- JBC
- 2023年12月10日
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更新日:1月26日
蝦夷草木図の作成
小林源之助は、江戸時代後期の寛政4年(1792年)に幕府の命を受け、蝦夷地と樺太の調査を行いました。 最上徳内や和田兵太夫ら12名とともに探検隊に加わった源之助は、蝦夷地の西海岸地方や樺太地方の山や川、海岸をくまなく調査し、その地理やそこに暮らす人々、そして動植物を記録しました。
探検から一年後の寛政5年(1793年)、源之助は調査の成果として「蝦夷地草木写生図」を幕府に提出しました。 この写生図は、後に「蝦夷草木図」と呼ばれるようになり、北海道で写生された植物28図と樺太で写生された植物29図の、計57図の植物画から構成されています。 その他にも「蝦夷草花図」、「蝦夷産草木図」、「松前草木志」といった別名でも知られています。 当時の蝦夷地の植物相を伝える貴重な資料として、現代においても高く評価されています。
小林源之助について
小林源之助(本名は小林豊章、のちに周助と称した)は、江戸時代後期の幕臣であり、本草学者、画家としても知られています。 寛政4年(1792年)に幕府の命を受け、蝦夷地と樺太の調査を行いました。
小林源之助の略歴
生年:宝暦13年(1763年)[4]
出身:武蔵国多摩郡[4]
経歴:
若くして幕府に出仕し、西丸御徒、のちに西丸与力となる。
本草学を学び、薬草の知識を深める。
寛政4年(1792年)、蝦夷地と樺太の調査探検に参加。
寛政5年(1793年)、「蝦夷地草木写生図」(蝦夷草木図)を幕府に提出。
文化8年(1811年)に隠居。
没年: 文政12年(1829年) 6月20日
蝦夷草木図に収録された植物
「蝦夷草木図」には、蝦夷地(北海道)と樺太(サハリン)に生育する多様な植物が描かれています。
例えば、北海道を代表する樹木であるナナカマドもその一つです。ナナカマドは、秋になると鮮やかな赤い実をつけることで知られており、その美しい景観は現代でも多くの人々を魅了しています。
蝦夷草木図の特徴と植物学における意義
「蝦夷草木図」最大の特徴は、その写実性と詳細な観察記録にあります。小林源之助は、対象となる植物の姿形はもちろんのこと、花や葉、茎などの細部に至るまで丁寧に描き分け、それぞれの植物の特徴を正確に捉えています。
また、各図には植物の名称、生育地、特徴などが詳細に記されており、当時の植物学における知識水準の高さが伺えます。 特に、薬効を持つ植物についての記述は本草学的な視点に基づいており、後世の薬草研究者にとって貴重な情報源となりました。
「蝦夷草木図」は、単なる植物図鑑ではありません。そこに描かれた植物は、18世紀後半の蝦夷地における植物相を記録したものであり、当時の北海道とサハリンの植生を知るための貴重な手がかりとなっています。 現代の植物学者や歴史学者は、この図を当時の自然環境や生態系を理解するための重要な研究資料として活用しています。
小林源之助の探検と蝦夷地の状況
寛政4年当時、蝦夷地は、現代の北海道と東北地方北部を指す地域でした。江戸幕府の支配が及んではいましたが、その自然環境やアイヌ民族の文化については、まだ多くの謎に包まれていました。
小林源之助は、幕府の命を受け、この未知なる地を探検し、その実態を明らかにする任務を負って蝦夷地に赴きました。当時の蝦夷地は、交通手段が限られており、移動は困難を極めました。小林源之助は、徒歩や船を駆使して各地を移動しながら、植物の採取や観察、そしてアイヌ民族との交流を行いました。
厳しい自然環境の中、困難と危険を伴う探検でしたが、小林源之助は持ち前の探究心と忍耐力で調査をやり遂げました。彼の探検は、「蝦夷草木図」の完成に大きく貢献しただけでなく、蝦夷地の地理やアイヌ民族の文化に関する貴重な記録を残すことにも繋がりました。
結論 - 小林源之助の功績
小林源之助は、「蝦夷草木図」の作成を通して、蝦夷地の植物相を記録し、当時の植物学の発展に貢献しました。写実的な描写と詳細な観察記録は、現代においても高く評価されており、植物学者や歴史学者にとって重要な研究資料となっています。
また、小林源之助の探検は、蝦夷地の自然環境やアイヌ民族の文化を理解する上でも重要な役割を果たしました。彼の残した記録は、当時の蝦夷地の状況を知るための貴重な手がかりとなっています。
「蝦夷草木図」は、小林源之助の功績を伝える貴重な資料であり、後世に引き継いでいくべき文化遺産です。
小林源之助<小林豊章>//〔画〕『蝦夷草木図』,桂川甫周国瑞 写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286942